免罪符VS理解

「障害を免罪符にしてはいけない」
という言葉は良い言葉ということになっていますが、私にはとても違和感があります。障害者は健常者と同じにできないといけないのでしょうか。同じにできなければ
「努力が足りない」
だけなんでしょうか。
 障害者という区分があるのは健常者と呼ばれる人たちが、理解するためと考えられます。障害を理解してもらうことと障害を免罪符にすることはそんなに違いますか。言葉の印象が違うだけで、言わば気持ちの問題です。私の造語を使うなら
「理解してもらう」
は善語、
「免罪符にする」
は悪語、中身は同じです。きれいな免罪符と汚い免罪符と言ってもいいでしょう。こう書くと
「できないことだけをやってもらうのは理解で、できることまでやってもらうことが免罪符だ」
みたいなことを言い出す人がいますが、できるかできないかは誰が決めるのでしょう。まさか素人の健常者様が決めるんでしょうか。
 障害の程度も克服具合も人によって違います。乙武さんがこの前プロ野球の始球式でボールを投げましたが、同じ障害の他の人に同じことを要求するような人はいないと信じたいです。最終的には本人か主治医等責任ある立場の人が決める以外ありません。
 不思議なのは障害者自身が
「障害を免罪符にしてはいけない」
と発言する場合があることです。その人は健常者と全く同じにできるのでしょうか。できないのだったら
「自分のはきれいな免罪符、他の人のは汚い免罪符」
と言っているだけのことです。
 こう書くと
「努力して克服したのだ」
と言われそうですが、私だって努力しました。今も毎日が努力です。健常者として健常者の世界で生きていますが、それでも克服できないことはあります。
 なお、私は障害を周りの人に伝えていないので、障害を免罪符にしたことは、きれいな免罪符含め1度もありません。自分のことは理解して欲しがるのに、他の人の理解してもらおうとする行動に対しては免罪符という悪語を叩きつけて潰そうとする悪の組織に憤るだけです。